○意識 [3]

  人間は誰もが何かに苦しんでいる。仕事があってもなくても、お金があってもなくても、有名であってもなくても、友達がいてもいなくても、何かに苦しんでいる。それは「私」という自我があるため。無心となり思考がないとき、「私」がないので苦しみは消える。いつもこれを意識していると、無心が習慣化されていく。意識的でない時、思考が感情と言動を支配する。この内面での無心か思考かの2つの分かれ道が、人生を穏やかか苦しみのあるものにするかどうかを分ける。



 人種、性別、宗教、能力、地位、資産などが人間の優劣を示すのではない。これらは「私」という自我の視点から見た、大きい小さい、多い少ない、優れている劣っている、有名無名という表面的な尺度。一方、意識として在るは、その人がどれだけ自我に振り回されず無心としてとどまれているかという段階があるだけで、優劣はない。社会的には立派な肩書きがあったとしても自我に振り回されている人もいたり、物をまったく持っていないが無心として在り続けている人もいる。


 1日の中でどれだけ意識的に無心になれたかが、その進度を表す。


 物を得ることも、どこかに旅することも、能力が高いことも、評価が高くなることも、どれも一時的な喜びと苦しみを生み出し、無意識な人生はこれを繰り返す。これに気づいたなら無心に取り組みやすくなる。


 全ての人間は最終的に意識として在る状態に行き着く。それまでは得たり失ったり、喜んだり悲しんだりを繰り返す。これらは悪いわけではない。良い悪いを区別するのも思考。無心はそれに囚われない。


 そういった意味で人生の出来事に良いも悪いもなく、得も損もなく中性。その出来事から学べば次の段階へ進み、学べなければ同じような出来事を繰り返す。

 気づきの度合いが深まるほど無心の時間が増え、意識として在ることが増える。気づきの度合いによって、人生で起こること、その時の判断が変わってくる。気づきの度合いが深まるほど、欲望や怒りから遠ざかっていく。人生で起こるすべての出来事は、気づきを深めるための経験でもある。


 無心が習慣化されてくると突発的な思考に気づきやすくなり、自然と無心に戻ろうとするようになる。


 マラソンでは早くゴールする人もいれば、遅くても走り切ることを目的にする人もいる。その誰もが最後は同じゴールにたどり着く。人間も同じで、誰もが最終的に同じ根源の意識へたどり着く。どんなに遅く走る人であっても。


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