○意識 [4]

  自我は「私」が失われることや傷つくことを恐れる。だから死を恐れる。意識として在ると死を恐れる思考がなく、死という概念すらもない。また早すぎる死は悪く、長生きすることが良いという考えもない。自我は生死に執着する。無心としてある時、誕生もなければ死という考えもない。つまり意識に誕生も死もない。今までずっとそこにあり続けている意識、それが人間の根源的な姿。



 人間はそもそも意識なので、無心になって新たに意識になるのでも得るのでもない。ただずっとそこにあったそれについて知らず、無知ということ。そのかわり自我という思考が前面に出て、人間はその思考を「私」だと思い込んでいる。


 若い時、どれだけ粗野で暴力的な者でも、年齢とともに丸く穏やかになるということがある。そう考えると人間は全体として悪から善、騒がしさから落ち着きへ、粗野から洗練と向かっている。これは誰もが自我を認識して思考に振り回されなくなり、意識として在る状態へと行き着くということ。つまり自我から意識へという方向。それがこの人生で起こるのか、それとも後の人生で起こるのかの違い。


 人生で起こる出来事や経験はすべて、根源である意識に戻って行く道。


 無心に取り組むために、苦行や断食は必要ない。


 意識として在るとは完璧になることではない。


 意識としてあると思考がないので、自分が完全であることも不完全であることも気にすることがない。


 思考を止めることが目的ではない。思考が起こっても、それを客観的に眺めていれば消えていく。思考に無意識に流されないこと。


 思考が止まらなくても気にしない。止める努力も一つの執着で苦しみ。思考が起こればただ気づき、無心になる。


 意識として在ることに取り組んでも、瞬間的に怒りや恐れを抱くことがある。ただその思考や感情が一時的であることにすぐ気づき、囚われず、それが消えていくのを静かに眺める。


 人間は幸せを求めるが、言葉上の幸せには2種類ある。1つは、一時的に盛り上がる嬉しい楽しいという感情。もう1つは心を乱す思考がない穏やかさ。体より外側に幸せを求める時、物や名声など何かを得る喜びは一時的で終わる。体より内側の意識に気づく時、無心になるので穏やかさという幸せに出会う。


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